塾や予備校や習い事は…。

「塾や予備校の存在を肯定せよ」みたいなことを書いたあと、ほかにもいろいろ日本の子供たちがお世話になるところを思い出した。たとえば習字の先生。たとえばそろばんの先生。たとえばピアノの先生。たとえば子供食堂や公民館。たとえば子供会や児童館。たとえば病児保育所etc…。

 

書き出したらキリがない。子供たちは地域で育っていくし、さまざまなところでお世話になりながら成長する。つまり子供は社会が育てているのだ。健全な社会環境が子供を健全に育む。特に子供が幼い頃は家庭や社会の影響が大きい。だからこそ社会や家庭で子供を育てる仕組みが中途半端だと、良い影響ばかりで育つとは限らない。

 

しかし、どうしても日本の義務教育期間は子供が学校で過ごす時間に比例して学校の責任が重大になる。教員の指導スキルが問われるのは、一定以上の資質能力を培うことが学校教育に期待されているからだ。

 

それなのに(それだから?)、学校教員は道徳性を養うことも、学力対策や体つくりも食育もキャリア教育も体験活動も担うようになる。その間、生徒指導もしなければならないし、校務分掌や事務仕事の締め切りも守らなければならない。ときに校外の専門家との連携もやるし、家庭の問題の相談にものる。

 

もちろん、学校教員一人一人が超人なら言うことはない。しかし「教員=超人」ではない。現在の日本の教員一人に対する負担は大きすぎる。学校側が問題を起こすことを擁護する気は微塵もないが、現在の子供たちの置かれる環境が最良のものだとは決して言えない。

 

それは日本の公教育が中途半端に存在しているからでは…?と思えてならない。文部科学省が示している「地域との連携協力」は、薄氷を踏むような危うさがある。学校が今よりもっと地域住民やPTAの善意を借りるようになれば、責任の在り方が問われるだろうし、教員とボランティアの境目がはっきりしなくなるだろう。

 

教員が専門職としてのプライドを持って仕事をしなければならないのは当然だが、やはり熱意のある教員の人数を増やす必要があるのだ。

 

何回か書いてきたことだが、もっと学校教育に予算を投じて教員の人数を確保する必要がある。そして公教育がどんな子供も排除しない場所になるべきだ。