教育格差

日本の現状では、保護者や子供が情報を収集して、教育を選択していかなければならない。それはある意味で勇気や行動力といった「力」が必要になるということだ。選択のためのステップをとばしたり、時間にゆとりが持てなかったりすると、途端に情報収集や分析に差が出る。もちろん、ゆっくり時間をかけて学校や進路を決めても、それが個人にマッチするかどうかはわからない。しかし、学校や進路決断のための選択肢が豊富にあると(悩むかもしれないが)人生が違う気がする。

 

教育格差というのは、そういう格差のことだ。教育選択の「力」というのは、子供を通塾させられるかという問題だけではなく、そろばんや習字、ピアノやスイミングといった習い事ができるかということだったり、通信添削型の教材を毎月購読できるかどうかだったりする。たくさんある月刊誌のどれを購入するかといったことや、子供が喜びそうな学習マンガ(歴史系やサイエンス系、文学系などいろいろ)の何を選ぶかということである。

 

そうやって多くの要素が重なって子供のキャリアが形成される。子供の得意不得意は分かれていき、能力や個性となっていく。

 

朝日新聞社とベネッセ教育総合研究所が共同で保護者の意識調査を行ったそうだ。            調査では「所得の多い家庭の子どものほうが、よりよい教育を受けられる傾向」について数千人規模に尋ねている。「当然だ」と答えた人は9・7%で、2013年の前回調査の6・3%から3ポイント以上増えた。「やむをえない」は52・6%で、前回とほぼ同じだそうだ。驚いたことに格差を容認する保護者は計62・3%となったのだ。さらに、多くの保護者が教育格差が拡大すると見ていることが明らかになっている。

 

教育はその子のキャリアを形成するものだ。そして教育は子供の数だけ違っているものだ。選択の差が子供の個性を作っていくなら、それを「格差」とは呼ばないだろう。格差と呼ばれているものを埋める方法があるなら、一人一人へ向けられた対策しかない。どこが対応してくれるのか?

 

国?地方自治体?地域社会?学校?                                                         待っている。もちろん期待したい。

 

しかし、どうしても頼りたくなるのは個人だ。学校の担任の先生なのだ。年度ごとに担任が替わり、卒業させたら終わりではなく、しっかり関わってくれて迅速に応えてくれると嬉しい。

 

私たちは教育格差という現実を認めながも、無意識にスーパー教師を求めている。