学校はきっと個に応じることはできないだろう。それなら…

私は海外の学校を視察に行ったことはないし、日本の教育事情ですら明るいわけではない。ただ、PISAという国際学力調査で上位を目指すだけではダメなのだろうとは感じる。昨日のブログに、日本の人口減から、学校は多様化への対応を迫られるのではないか、みたいなことを書いた。

 

実は既に子供の多様性や家庭のさまざまな価値観に対応すべく学習指導要領は示してきた。学校は児童生徒一人一人に対応するのが望ましいということだ。子供は一人一人違う。性格も適性も興味・関心も、交友関係も悩みも趣味も違う。そして、将来の夢も違う。それなら、個別に指導することが求められて当然だろう。

 

ある小学校の保健室には、一時、8人もの児童が登校していたと聞いたことがある。大きな学校ではなかったのに保健室登校の児童が8人だ。そういった話を耳にすると、いつも思う。読書が好きな子には思う存分図書室で本を読む権利をあげられないのだろうかと。図工室でイラストや絵を描いていい権利をあげられないのかと。音楽室で曲作りをしてもいい権利をあげられないのかと。保健室で悩みを相談したい子も、親と一緒に授業を受けたい子もその思いをかなえてあげられないのかと。

 

しかし、現実はうまくはいかない。教員の人数が不足している上に、教育課程が個別指導を目指している状態にない(個に応じた指導は推奨されているが)。つまり、教員のスキルに任せきりということになる。どんなに能力の高い教員でも分身の術を使わない限り、子供の実態に合わせることは難しい。

 

だから、現在の公教育がそれを目指せないのはよくわかる。しかし、いやがる子供から本を取り上げて「教科書とノートを開きなさい」という一方的なアプローチだけではまずい気がする。「教科書を開くこと」がその子供の成長に必要なことだとは思えないからだ。

 

家庭が守るべきだということなのだろうか。学校では個に応じることに限界があるから、家庭でなんとかしてくださいということなのだろうか。

 

海外の先進国の公教育は留年制度があったり、入試による競争が厳しかったりして日本のように甘くないところもあるが、少人数教育が充実していることが多い。大学卒業まで教育費は無償という国もある。きっと、そこが日本と海外の学校の違いになるのだろう。国の教育施策が違う部分は甘受して、情報を駆使して子供達の将来に備える必要がある。

 

学校にすべてを委ねるのではなく、学校から自立せよということかもしれない。