「関係の貧困」が子どもの読解力に影響することが学校教育の中で可視化されないのはなぜか

「単純な話で、学校の先生になるような人は読解力があるから」

AERAの記事の中に登場する小宮位之(たかゆき)さんの言葉に釘付けになった。小宮さんは無料塾を運営しているNPO法人八王子つばめ塾の理事長だそうだ。

 

学校の先生になる人は、たいてい恵まれた環境で育った人が多い。自身の境遇が恵まれていたということさえ自覚していない人も多い。だから、勤務先の学校で穏やかでない状況の児童生徒に出会うと、行動できなくなる。

 

自分とかけ離れていて想像できないとか、自分の周りにはこんな人はいなかったとか感じてしまうのだ。

 

小宮さんの指摘は、学習能力について、たいてい当てはまるのではないかと思う。能力の高い先生ほど児童生徒の困り感に寄り添うのが苦手なようだ。だから指導は大雑把になる。それでも児童生徒の様子を素早く察知する観察力がある先生は、教育的ニーズを的確に表現するようになっていく。意識できるかできないかの差だ。

 

学校は言語活動の充実を目指してきた。新学習指導要領ではアクティブラーニングや協働的な学びを推進している。少しは改善できる部分もあるかもしれない。

 

ただ、「関係の貧困」については、学校の中だけで培われるものではないので、小学校入学時に子供一人一人のキャリアに差が出てしまっている気がする。

 

“他者との関わり”を軸に子供の成長を観察してみると、さまざまなアプローチが考えられるかもしれない。